代表・渡辺彰佳プロフィール
建設業者の建設業許可など役所関係手続きのお悩み、
ホームページ集客についてのお悩みを解消します。
渡辺彰佳がお手伝いできること
私は
売上を上げるために建設業許可や経営事項審査、入札参加資格申請、インターネットでの集客をしたいと思っているのに難しい、あるいはプロのアドバイスが欲しいと困っていて
なんとか現状を打破し会社を成長させたいと頭を悩ませている社長さんに対して
適切な許認可取得のアドバイスやホームページのコンサルティングで
御社の売上アップのお手伝いができます!
建設業者の売上アップ支援をする行政書士です
渡辺 彰佳(わたなべ あきよし)
1975年12月17日新潟県柏崎市で生まれる。
新潟県立柏崎商業高校 情報経理科を卒業後、倉庫内作業員、通信機器訪問販売、シロアリ駆除営業マン、松下電工代理店営業マン、精肉店、ペットショップ店員などの職を経験し、2002年行政書士試験合格。
レンタルマットやモップのルート営業マンをしながら開業資金を貯め、2004年に行政書士事務所開業。
開業当初はチラシなどを配り集客を目指すが、まったく集客できず眠れない日々を過ごす。
自作でホームページを作り、初めての仕事の受注は公開後約1か月後。福岡県の方からのペットトラブル相談料の3000円。売上を得る大変さが身に染みる。
その後はホームページ制作に力を入れ、受注数を伸ばす。
出勤後にパソコンを起動しメールを開くと依頼のメールが十数件も入っていたことがあった。
このノウハウを仲間の行政書士に教えたところ、その行政書士も依頼を獲得したため効果を確信。
建設業のお客様にもアドバイスし、建設業の許認可手続きと共にホームページからの売上アップに携わる
現在では千葉県内の建設業の経営者の支援に飛び回っている。
<役職>
元・千葉県行政書士会印旛支部 副支部長・総務委員長
<資格>
行政書士、愛玩動物飼養管理士、ビジネス実務法務検定、簿記検定、ワープロ検定、情報処理検定
<趣味>
テレビ鑑賞(水曜どうでしょう、クイズ、バラエティ、歴史もの)
音楽鑑賞(浜田省吾)
プロ野球観戦(福岡ソフトバンクホークスファン)
ゲーム(ドラゴンクエスト、マリオ、野球、レイトン教授)
<家族>
妻、娘(双子)、猫(ブリティッシュショートヘア)2匹
2014年生まれの娘たちに「パパ~」と呼ばれるとデレデレとしてしまいます(笑)
著書(動物法務協議会との共著)に
「あなたのペットトラブル解決します(角川学芸出版)」がある。
生まれてから現在まで
<幼少時代>
私は昭和50年(1975年)12月17日に新潟県柏崎市に生まれました。
父、母、3つ上の兄、1つ上の姉がいて、5人家族でした。
父は東京出身でしたが勤めていた会社の都合で柏崎市の工場へと家族と一緒に赴任していましたので、私は柏崎市の総合病院で産声をあげました。
父は仕事の都合でお産の場にはおらず、後になっても母から「お父さんは子供3人ともお産の時にいなかったんだよ」と言われてしょげていました。
柏崎市は新潟県ですから雪国のイメージがあると思いますが、まさしく「ザ・雪国」でした。
冬の間は雪がしんしんと降り積もり、住んでいた2階建ての家のうち1階部分は雪に覆われて
家の中が真っ暗になっていました。
朝、まだ暗いうちから父親が起きて家族が家から出入りするために雪かきをしたり、かんじきを履いて雪を踏み固めて道を作っていました。
毎朝道を作っても、次の日にはまた最初からやり直しです。
春が来るまで毎日この作業が続くのです。
雪国の人が我慢強い理由はこんなところにあるのでしょう。
私は3歳になると家から500メートルくらいの所にあった保育所に通っていました。
毎朝、母に連れられて行くのですが吹雪の朝は母がコートの中に私も入れて守ってくれながら歩いた記憶が今も残っています。
我が家は犬を飼っていました。
茶色と白の毛の「ちゃしろ」、茶色の毛の「ロッキー」、白い毛の「わんた」など、犬に囲まれた生活をしていました。
雪が積もると犬は大喜びです。
普段はつないでいる鎖を外して、家の2階の屋根から犬を雪の中に投げ落として遊んでいました。
犬も「もっと投げて~♪」といった感じでハァハァ言いながら楽しそうな顔をしていたことを思い出します。
<小学生~中学生>
柏崎市立新道小学校の最初の1年生として入学しました。
新設の小学校だったんですね。
「新しくてきれいな学校だな」と思ったことを覚えています。
児童の健康増進に力を入れている学校で、休み時間にグランドを走ったり、体育館でディスコ音楽をかけてダンスをするなどユニークな学校だったのかもしれません。
全国健康優良校として表彰されたこともありました。
小学生になると友達同士、ニックネームで呼び合うことがあると思います。
私についたニックネームは「にくよし」
私の名前が「わたなべ あきよし」で学校の近所に「肉のにくよし」というお肉屋さんがあったんです。
そして私の体型は太目でしたから、必然的に「にくよし」と呼ばれました。
男子に呼ばれるとイラッとすることもありましたが、女子から「にくちゃん」と呼ばれるとなんだか嬉しい、そんな複雑なニックネームでした。
野球大好き少年でした。
少年野球をやっており、汗っかきな私は練習中に誰よりも多く汗をかいていましたので監督から「よく頑張ってるな!」などと褒められ「汗っかきも悪くないな」と思っていました。
「落合~」「門田~」などと言いながらプロ野球選手の打撃フォームを真似していましたね。
周りは巨人ファンばかりですが、私は南海ホークスファンで変わった子でした。
クラブ活動はマーチングバンド部でした。
マーチングとは楽器を持って移動しながら演奏します。
私は大太鼓を肩とお腹で固定して両手でバチを持ち、ドンドンと低音を響かせていました。
柏崎市の夏祭りや全国大会で東京厚生年金会館で演奏をして、良い思い出になっています。
中学生になり柏崎市立第四中学校に通うようになると卓球部に所属しました。
野球と同じように卓球も好きだったので「野球は高校でやろう。卓球は中学で」と考え卓球部に入りました。
雪国の新潟なので冬の期間はグラウンドが雪に覆われていて使えない為、室内で卓球をして遊ぶことが多かったのです。
卓球はそこそこ上手かったので柏崎市の強化選手にも選ばれたことがありました。
学校の成績は中の下くらいだったと思います。
10段階評価で国語と社会は「7」か「8」で他は「5」以下といった感じでした。
興味のないものは勉強しなかったのです。
美術は「1」でしたね。
未だに夏休みの宿題を提出していませんが、巻口先生、もう大丈夫でしょうか?
3つ上の兄は勉強ができていましたので、兄を知る先生から「お兄さんは出来るのにね~」などと嫌味を言われていました。
「兄はたくさん勉強しているからしょうがないね~。俺はしてないもの~」と特に気にしていませんでしたが。
中学3年生になると高校進学について考えます。
「普通の会社員は嫌だな。将来、自分で商売してみたいな」とぼんやりと考えていましたので、商業高校を受験することにしました。
大学に入ってから商売のことを学んでいもいいのですが、私は勉強が嫌いだったため高校を卒業したら就職しようと考えていたのです。
進路相談の三者面談で担任から「お前の成績じゃ合格は難しい」と言われて「先生が落ちるんじゃないから大丈夫ですよ」と生意気な返答をしたらしいです。
まったく覚えていませんが同席していた母親が覚えていました。
<高校時代>
新潟県立柏崎商業高等学校 情報経理課に入学しました。
普通教科の他、簿記、情報処理、マーケティング、実践等の商業教科を学びました。
簿記は好きでしたのでテストで満点を取ることもしばしば。
情報処理の授業でプログラムを作るのも面白かったです。
実践では実際の株式市場を元に株の売買や、商品を販売して手形の流通の仕方などを学び、
楽しめました。
部活は野球部に入りました。
弱い学校でしたので、甲子園に行くなんて目標はありませんでした。
練習して、たまに試合して、また練習を繰り返す毎日でした。
野球が好きなだけでやっている感じでした。
ただ若気の至りでしょうか。
顧問の先生の言動が気に入らず、2年生の頃、何人かの部員と野球部を退部してしまいました。
原因がなんだったのか今では覚えていませんので本当に些細なことだったんでしょうね(笑)
退部してからは野球部を退部した仲間と休部状態だった柔道部を復活させました。
副部長になって部員を集め、練習をし、初段の昇段試験を受けましたが、ほぼ素人ですから惨敗でした。
下級生部員の足が異常に臭かったことは覚えています。
就職活動の時期に入ると学校が斡旋してくれる企業情報を見ながら悩みました。
まったく希望の職種が無かったので学校が勧めてくれた千葉県市川市の平野鋼線(株)に入社を希望しました。
新潟から出て関東に就職しようと考えていた為、選択肢は少なかったのかもしれません。
平野鋼線は新潟県出身の方が興した会社でバネの材料となる硬鋼線の問屋でした。
全国に10か所程度営業所がありました。
会社に寮があったこともポイントでした。
就職試験の日。
東京の両国にある本社に行きペーパーテストを受けました。
衝撃的だったのは「今のアメリカ大統領の名前は?」などのごく簡単な問題だったため、「高校生は全然ものを知らないと思われているんだな」と感じました。
無事に合格できました。
<就職で上京。今でも残っているトラウマ>
実家を出て行く日。
JR柏崎駅から電車に乗り、長岡駅から東京駅まで新幹線で移動しました。
東京駅のホームに降り立った時はまさしく槇原敬之さんの「遠く遠く」の心境でした。
♪新幹線のホームに舞った見えない花吹雪思い出す ですね。
田舎から出てきた者あるあるかもしれませんが電車の乗り方のルールを知りませんでした。
東京駅から両国駅への移動は総武快速に乗りました。
私としては「快速=普通乗車券だけで乗れる電車」と思っていましたから、まさか有料のグリーン席があるなんて思っていません。
グリーン席だとは知らず空いているグリーン席に座っていると車掌が来て切符拝見となります。
もちろんグリーン席分の切符はありませんから無いことを告げると「これから就職か?そんなんじゃ会社じゃ役に立たないよ!この野郎!早く出て行け!」と罵倒されたことは今でも心の傷として残ってしまいました。
田舎者でルールを知らず失礼しました。
仕事が始まるとなかなか面白かったですね。
フォークリフトを乗り回して材料を運んだり、倉庫の中で200キロくらいあるリング状の材料をコロコロと転がして出荷したり、汗をかいていました。
夏場の熱い時期では1日に体重が2キロ落ちることもありました。
同僚と朝と夕方の体重の減り方で競ったこともありました。
3年くらい勤め「他の仕事もやってみたい」という気持ちが出てきました。
将来、自分で商売をしたいと考えていましたので他の会社も見てみたかったのです。
営業マンにもあこがれがありましたので、千葉市にある通信機器会社の営業マンに転職しました。
<インチキ会社への転職>
通信機器の会社では個人のお宅を1件1件廻り、電話機のセールスをしました。
詳しくは覚えていないのですが「電話代が安くなる電話機があります。興味はありませんか?」のようなセールストークだったと思います。
朝礼で大声を出して「自分の夢を叶えよう」みたいなことを言って、気分を盛り上げてからセールスに出かけていました。
しかし、何だかわからない商品のセールスですから1ヶ月ほどで辞めてしましました。
その後、同じく千葉市のシロアリ駆除会社の営業マンとなりました。
これまた怪しい会社で先輩営業マンは床下の無料点検のアポイントが取れると懐にシロアリに食われた木片を忍ばせて床下に入り、点検が終わるとお客さんに「シロアリに食われてましたよ」と例の木片を出すのです。
これまたインチキ会社でしたので2週間ほどで辞めてしまいました。
<建設業界への転職>
次に転職したのが松下電工の代理店でした。
主に住宅設備と建材を扱っており、私は旭化成ヘーベルハウスさん、旭化成スクラムハウスさん、そして千葉県内の地場工務店の担当となりました。
旭化成さんにはシステムバス(ユニットバス)とシステムキッチン、洗面台を販売していました。
土日には住宅展示場を回って、来場者にシステムバスとシステムキッチンの説明などをしていました。
地場工務店さんには設備と建材全般を販売していました。
営業として各施工現場を廻っていると職人さんと施主さんが会話しているのを耳にすることがあります。そこでは施主さんの疑問にわかりやすく答える職人さんがカッコよく見えました。
仕事内容的には面白かったのですが、残業が多くなり深夜に及ぶことも多くなった為、2年間ほどで辞めてしまいました。
職を転々とするうちに「将来独立したい」気持ちがよみがえり、高校時代に勉強した法律と松下電工代理店時代に感じた建設業の面白さを生かせる仕事はないかと考え行政書士にたどりつきました。
<行政書士試験受験を決意>
その後は働きながら勉強できるようにと昼間はジョイフル本田ペットセンター富里店でのアルバイト、夜はユーキャンの通信教育で勉強の日々でした。
1度目の試験では準備不足で見事に不合格に。
試験は1年に1度ですので、またアルバイトをしながらの勉強生活に。
今度は早稲田セミナーの行政書士講座でテキストとカセットテープでの講義を聞きながら学習をして1年間で500時間くらい勉強したでしょうか。
2度目の試験で何とかギリギリ合格が出来ました。
合格通知のハガキに「合格」の文字を見たときは、強烈にうれしかったことを覚えています。
<開業準備へ>
合格したら即開業と行きたいところですが、開業資金がありませんでした。
そこでレンタルモップやマットのルート営業マンとして(株)サニクリーン東京に転職しました。
1日に30~40件程度の店舗やオフィスを廻って、レンタルのモップや玄関マットの交換をします。
空いた時間には新規の取引先を開拓しなければなりません。
飛び込みでの営業でしたので、成約率は1%も無かったのではないでしょうか。
今考えると効率の悪い営業方法ですね。
1ヶ月に3件以上の新規開拓ノルマがありましたので、先輩営業マンの営業方法を見ながら見様見真似でやりましたが、トップ営業マンのようには成績は残せませんでした。
1度だけ関東で3位の営業成績で横浜中華街に招待されたこともありましたが、それはたまたまで確立した営業手法がある訳ではありませんでした。
<行政書士事務所開業へ>
ある程度資金が貯まり、自宅で行政書士事務所を開業しました。
もちろんお客さんなんていませんから、1から新規開拓をしていかなれればなりません。
訪問営業は前職で懲りていますから、チラシでの集客を目指しました。
「士業が営業する方法」のようなタイトルの本を購入し、チラシの作り方を真似しました。
初めてのチラシは特に専門分野を決めていませんでしたので「何でもやります」のような内容でした。
チラシを1000部ほど作って、折り込み広告で配布しました。
電話は鳴りませんでした・・・
チラシを1000部折り込めば1件くらい電話が鳴るだろうと考えていましたが、悲しい現実でした。
今考えれば「何でもやります」は一番やってはいけないチラシの作り方ですね(笑)
このままではいけないと次に手を出したのがホームページ作成でした。
高校でパソコンの授業を受けていましたので、プログラミングの心得は少々ありましたがまったくの別物。
インターネットの仕組みから、ホームページの作り方を本で最初から勉強していきました。
ホームページビルダーを購入し、テキストを見ながら何とかホームページ公開にこぎつけました。1ヶ月はかかったでしょうか。
チラシでの反省点を生かし当時は珍しかったペットビジネスとペットトラブルに特化したサイトを作成しました。
これは功を奏し、福岡県の方から初めての依頼「ペットトラブルのメール相談」を受け、報酬3000円を獲得したのです。
これは嬉しかったですね。
誰の手も借りず、会社の力でもなく、自分の力で初めて手にしたお金です。
この日から10年以上経った今でも覚えている感動です。
それからはパスポートの代理申請の専門サイト、建設業許可の専門サイトを立ち上げ、順調に売上を伸ばしていけるようになりました。
通常ですと千葉県庁など行政のサイトが検索上位になるのですが、私のサイトは千葉県庁よりも上位表示を実現していたため千葉県への問い合わせなどが来ることもありました。
<ホームページのアドバイスを開始>
ホームページで仕事を獲得するノウハウが出来た為、仲間の行政書士にもやり方を教えたところ、その行政書士も仕事を獲得できました。
これは自分のお客様にも提供できると感じ、特に建設業のお客様にホームページのアドバイスをするようになりました。
建設業のお客様は大工さんなどの職人さんですから、パソコンを苦手としている方も少なくありません。
簡単にホームページが作れるようにアドバイスし、お客様自身でホームページの管理、更新が出来るスタイルを確立しました。
定期的に訪問してホームページの改善箇所をコンサルティングしています。
行政書士を開業して10年を超えました。
1年で廃業する方も多いこの業界で、自分でも驚いています。
新人の行政書士にアドバイスを求められることも多くなりました。
<ノウハウはすべて伝える>
私は持っているノウハウは全部教えるスタイルが好きですので、出し惜しみはしません。
「何かお客様の売り上げにつながるのか」を常に考えて提案をしていくスタイルをこのまま続けて行きたいと考えております。
許可が取れるのかを気軽に知りたい方へ
もし、建設業許可が取れそうにない場合であっても、どのようにすれば許可が取れるのかを回答させていただきます。
もちろん依頼をしなくても構いませんので、気軽にご利用くださいませ!